2012年11月アーカイブ

幾つかの家族が寄り添って居住するコミュニティ作りにチャレンジしてきたことで、次なる目標が定まっている。それは賃貸でも分譲でもない第3のマンションである。土地は地主が持っていて、建物を建てる費用を建設組合が出資して調達する。建設組合には地主も居住者も投資家も参加できるが、基本的には居住する、しないに係わらず建設する為の組合を形成する。つまり建物の所有は建設組合が共有し、地主から借地するのである。建物の借地期間は30年ないしは35年位を想定して、期限満了の段階で地権者が建物を買い取る仕組み。地権者は30年間、あるいは35年間の間に地代を貯めておき、中古の建物を買い取ることになる。そうすることにより建物の権利が分散されることなく、最終的には地権者の責任で処分も含め対応することが出来る。そしてコミュニティは基本的には建物の利用料を支払いつつ共生する環境を維持することになる。

基本は所有と利用を分離して企画に参加するメンバーを募集して、その企画にあった地権者と協議してコラボレーションするものである。従って敷地ありきではなく参加者ありきで事が進むことになる。土地ありきの場合、多くのケースで地代が固定され、地権者の迷いを払拭させるために高い賃料設定に成りがちである。そこで、利用者、つまり土地のユーザー集団が地権者と交渉することで適切な地代を設定して、さらに地権者とのパートナーシップも育てようと言う主旨である。時代は右肩上がりの地価ではなく、むしろ地価ものものに信頼性がおけない時代に入っている。地権者にとっても土地は持っていても利用しなければ固定資産税や相続税の心配をしなければ成らず、かといってアパートを建てても入居者が保障できない時代。それが入居者組合や建物組合の設立で確実に地代が入ることと、特約付き定期借地で、将来的には居住者も含め賃貸住宅としての資産が確保できるという条件での土地提供はメリットがある。

基本は集まって住みたいと思う人々を集結させることが出来なければ始まらない。そこがスタートだから、仕掛けが難しい。単純に誘っても乗ってくれる訳ではないし、自らが住みたいと思うものでなければ無駄な事になる。自分が住みたいと思うような企画が必要になる。そこでチラシでも配って、この指止まれ方式でグループ作りを試してみようかとも思うのだが、さてどうする。

なんだかんだと言っても最後は老人になっていて、老人ホームで過ごすほうが安心という選択になる。在宅で最後までという選択は一部の恵まれた人に対する特権で、まずは介護する家族がいなければならないし、住宅事情が介護する人も同居できるほどでなければならない。当然、介護費用を負担する為の経済力も伴わないと成立しないことになるので、そう簡単ではない。日本では施設介護が整備しきれないということもあって、在宅介護が叫ばれているが、単身世帯の高齢者に在宅介護の余地は殆ど残されていない。結局は老人ホームのお世話にならなければ死ぬことさえ安心して出来ないことになる。

老人ホームも運営主体に因って「公的施設」と「民間施設」に分けることができるが、国や自治体が補助して特殊法人が運営する老人ホームには以下のような分類ができる。

・特別養護老人ホーム(特養)

・養護老人ホーム

・軽費老人ホーム

・ケアハウス

・介護老人保健施設(老健)

・グループホーム

また、民間施設では、株式会社などが運営する老人ホームとして、以下の分類になるが、住宅型、施設型、入居金タイプ、家賃タイプなど幾つかの選択肢がある。

・有料老人ホーム

・ケア付きマンション

老人ホームの種類も、そして費用についても多様化している中で、老人ホームの選択も難しい。様々なサービスが提供されているが、高齢化とともに市場の拡大や多様化に因って、ある意味では市場原理が働くことに因って、いい意味で選択の余地が拡大している現状がある。だから市場に老人ホームが多いほど選択の巾は広がり、コストもサービスも良くなるという原理が働くことは当然である。

こうした市場を簡単に見分けるには、まずは高齢者に対する施設の数を比較して見ることである。そこで、全国を都道府県別に老人ホームの数を調べてみた。それが以下の図である。

65歳以上の人口10万人当たりの老人ホームの数であるが、2009年の状況では大分県が70.0とトップ。次いで香川県の66.2となる。これには公的な老人ホームと民間のホームが合計されているので、その詳細は見えないが、とにかく老人ホームの多さには軍配が上がるのが大分県。「大分は温泉県」「香川は讃岐うどんで安価な食材」などと想像してみるが、次いで島根県、宮崎県と続いている状況からすると、最初に高齢化が始まった地域が、次第に老人ホームも飽和状態になり、余剰が出始めているのではないかという解釈も成り立ちそうな気配。もしかしたら、東京から地方に移住したほうが最後まで安心安全で幸せに過ごせるかもしれないと思ってしまうのは間違いだろうか???

clip_image002

clip_image004

30代から公営住宅の計画や設計を中心に仕事を続けてきた。その中で許せない制度が日本にはあった。それは「二種住宅」と「一種住宅」の差である。端的に言うと、一種住宅より二種住宅の方が貧しい世帯の住宅として位置づけられ、住戸面積も5?ほど小さく設定されていた歴史がある。戦後の住宅政策の中で、昭和25年の住宅金融公庫法、昭和26年の公営住宅法、昭和30年の日本住宅公団法の三法が日本の住宅政策とされ、公営住宅は低所得層の居住水準を確保するために全国に整備された。そして差別を生み出した。

公営住宅団地はただでさえ、地域から差別を受けていた。公営住宅団地の学校は敬遠され、「公営住宅の子供とは遊ぶな」という意識が生まれた。そして、その渦中の公営住宅の中でも二種に対する差別意識が生まれた。二種の建物は廊下タイプで狭い。一種は階段タイプでプライバシーが保たれているという具合に、ハードの整備基準が上下意識を生み、差別感を創っていた。収入の多寡にかかわらず家族の人数は同じはず。住戸面積に差があるなどは明らかに差別で、歴然と区別する手法に反感を覚えていた。そして、技術的に可能な方法として、その差を顕在化させない手法を考えた。

そこで一種住宅と二種住宅を同じ階段を挟んで向かい合わせた。つまり一種と二種の建物を作るのではなく同じ建物に並列で並べることで、差別を意識させない仕組みとした。同じ階段で向かい合う住戸の関係では相互に差を意識することは出来なくなる。現実に入居時の所得の差はあっても、その後の経済力は逆転するかもしれない。それが家庭の経済力であり入居時の経済力が続くわけではないのに、入居時から格付けが始まっているという仕組みを実態のないものにしたかった。

現在、一種二種の区別は無くなった。従って住戸の広さと世帯の収入状況だけで家賃も決まり、種別の差別は無くなった。それは政策として居住者サイドの考慮で平等を確保したものではなく、国の補助制度の統合に因って差別が無くなったにすぎない。だからうっかりすると、意識しない内に差別が生まれるかもしれない。

ずっと住まいについての仕事をしているが、ようやく住まいが余り始めて、無理して住宅を購入する必要が無くなった。持ち家の親が子に譲ることが出来る時代が来た。それほど日本の住宅ストックが増えてきたことと、少子化で人口減少社会に入ることで住まいを広くシェアすることが出来るようになった。とりわけ地方の公営住宅は空き家が増えており、都会に拘らなければいつでも公営住宅に入居して低家賃で過ごせることになった。

思いがけなく、公営住宅は国の補助制度で良質な住宅が供給されていて、民間賃貸住宅よりも品質の高い住宅が多く供給されていることから、地方都市では公営住宅の品質に軍配が上がるほどになった。逆差別などと言われる例もあり、貧しくなくては入居できないという矛盾さえ孕んで来た。差別や平等、そして公平などという概念も、時代に因って変わるし制度によって価値観も変化する。住宅余剰の時代に入った今、公営住宅事態の在り方も問われているのだ。

全国で住まいが余り始めていることは何度か説明しているが、住まいが余ると空き家が増えて、住まいの選択肢が広がることになる。住宅ユーザーとしては好感を持って受け止められるが、賃貸住宅の家主にとってはたまらない。空き家が増えれば増えるほど管理コストがままならない状況になる。

賃貸住宅の経営は、使われないでも維持する費用がかかる。とりわけ建物は風雨に晒されて室内は換気が悪ければカビも生えるしダニも湧く。畳替えをしていても使えなくなることはザラにある。空き家の管理は手間がかかるが家賃は入らないので、ダブルで損失が増える。だからやむなく家賃を下げてでも入居者を確保しようとする。それは公営住宅も同じこと。

公営住宅は税金で運営しているということもあるので、管理は比較的ルーズになりやすいが、管理が悪いと人気も落ちる。地方でも都会でも公営住宅というだけで差別的な意識で見られたりもするので、敬遠されることも多い。しかし、家賃が安いので大都市では人気の的になる。東京の坪当たり家賃が3500円、多摩ニュータウンには35?当りから65?くらいまでが中心で供給されているが、だいたい2万円から4万円程度が標準で、都内でも安価な設定。さらに高齢者になるとその半分程度に減額される。だから高齢者にとっては最後の砦で、公営住宅が当ったらラッキーということになる。

地方に行けば、それがさらに安くなる。意外や意外、岡山県が安い。平均値だから全てが岡山市ではないとは思うが、以前、岡山県内で市営住宅の建替計画をお手伝いしたことがあるが、その建物が建っているとすれば、品質的には民間のアパートよりは良いという評価になる。というのも地方でコンクリート増の賃貸住宅は公的賃貸住宅しか無いという実態がある。そして近年の公的賃貸住宅は必ずユニットバスで給湯付きだし、バルコニーも広く隣棟間隔も民間の迫っ苦しい敷地に詰められること無くゆったりとしている。

公営住宅の家賃が安い県には四国や中国地方、それに宮崎県が安い。嘗ての新婚旅行のメッカ、宮崎は今や安く住むにはもってこいの地になった。高齢化した夫婦が、あの日新婚旅行に行った宮崎で最後を迎えるなんてのも魅力ある選択だとすれば、そろそろ東京から宮崎に向けて移動するのも得策。何しろ東京の家賃の半分で住めるし、宝くじのような東京の公営住宅ではなく、現代の仕樣で造られた宮崎のバリアフリーの公営住宅に住み、温かい老後を過ごすなんて言う夢の様な生活がある。

私は四国出身だから、やはり四国を選びそう。徳島や高知、愛媛も家賃が低いし、次第に家賃は低下していて、さらに年金生活では住みよい環境が生まれつつある。東京に後ろ髪を惹かれるものがなければ移れるのだが、どうも地域活動が過ぎて、関係者が増えすぎたのかもしれない。なかなか足抜きできない状況に地方出身者としては身が引き裂かれる思いもある。

clip_image002

clip_image004

『家づくりって夢追い人だと思う』お金がいくらでもある人はどんな住まいでもいい。誰かが面倒を見てくれるし、高級な老人ホームに入居すれば至れり尽せりで生涯を終えることが出来る。だからとにかくお金さえたらふく準備しておけば家づくりなど考えなくても幸せは買える。そういう人に私は反論しない。ただし、それが幸せと思う気持ちが保たれればの話。多くの場合、高齢者であれば物質にも介護にも生活支援にも充足されて居るだけでは、実は幸せは感じないのが人間なのだという不幸がある。

人間の欲は『食欲』『睡欲』『性欲』など多様な欲があるが、それぞれの欲求が充足されると幸せかというとそうではない。個人的、身体的な個別的欲求が充足されても、実は社会的な位置を見つけるコミュニティバランスが保てない限り、自身の心のコントロールは出来ない。つまり、どんなに素晴らしい御殿で住もうと、どんなに親切な召使がいようとも、どんなに欲しい物を手に入れても、人は幸せになれないことを殆どの人が知っている。

人間の幸せは常に社会と対峙している。人と人との関係が幸せをつくる。たとえばマラソン選手が一生懸命練習して大会に優勝した時は当然、幸せに感じる。しかし、次に目標が出来れば次なる高みの幸せに向かって苦しい練習が始まる。人間の幸せは、実はその苦しい練習の時も幸せなのだ。幸せのピークと継続的な幸せがある。常に目標に向けて努力している状態が人を幸せにする。

一方、不幸な状況は、こうした目標を亡くした状態。明日を生きる希望を亡くした状態をいう。太宰治が自殺を考えていた時に、反物をもらって袖を通すまで少し生きていようかと思ったように、小さな目標が生まれると人間は生き続けて行けるもの。前に向いていることが人を幸せにさせる。

そんな時に家づくりは大きな目標を与える。ここで言う家とは、言い換えると新しい家族づくりかもしれない。人と人が触れ合う場所づくり。それは他人だった人と人が触れ合ううちに擬似家族となっていく課程で生まれるコミュニティ。かけがいのない人間相互の関係が生み出す一体感のある集団。互いに理解して尊敬し合いながら踏み込まない関係が生まれる。親族関係ほど踏み込まず、でもご近所付き合いよりは深く、近ず離れずの関係がある。

人の幸せは人によってもたらされる。だから人と人との関係を作ることが安定した幸せをもたらしてくれる。そこに共に住むことを考えるコーポラティブ住宅が相応しい。持ち家とか賃貸という分け方ではないそれぞれの経済状況や社会的な状況に有った住まいを生み出す土壌がある。こうした環境を育てることが、実は幸せづくりの始まりになるのかもしれない。

このアーカイブについて

このページには、2012年11月に書かれたブログ記事が新しい順に公開されています。

前のアーカイブは2012年10月です。

次のアーカイブは2012年12月です。

最近のコンテンツはインデックスページで見られます。過去に書かれたものはアーカイブのページで見られます。

ウェブページ

Powered by Movable Type 5.12