2012年10月アーカイブ

むかしむかしの時代は高齢者の子どもとの同居率は高かった。大家族制が当たり前だった頃の話だが、その頃は高齢者が独りで生活することが難しかったとも言える時代。近くにスーパーも無いし百姓しながら自給自足で味噌や醤油を作っていた時代を想像すると、高齢者のみで生活するなんていうことは考えにくい話しだった。それが次第に便利になり、高齢者の一人暮らしだって出来る時代になったので単身高齢者世帯や高齢者のみ世帯が増えてきたという考え方もできる。だから高齢者の子どもとの同居率が下がっているのは、社会の利便性であるという考え方である。

一方、社会的な規範などを根拠とした説明もある。戦後、この方核家族化が進んでいて、その後の核分裂というか、子供が独立して行く課程で高齢者世帯が増えてきたという考え方である。とりわけ団塊世代は友達夫婦も多く、子供の独立に伴い夫婦のみで生活するケースが増えていることや経済的にも親を頼れないという考え方が広がって、互いに独立する意識が強くなっての結果だという判断もある。

図は1986年と1998年の都道府県別の比較で、東北や日本海側に高齢者との同居が多い傾向が見えるが、急速に子どもと高齢者の同居率が下がっていることを物語っている。たかだか12年間の間に10%も下がっているという状況は何だろうと考えると、それはバブル経済の到来だったように思えてくる。1986年はバブル前のギリギリの年。翌年から何だか地価上昇が急速になってきて抑制できない物価上昇や景気の高揚に国民全員が踊った時期があった。その時に親と子は分離したと想像するとわかってくる。とりわけ団塊世代を中心として持ち家に走った。

親の建てた古い家の隣に子供が家を建てるケース。近所の建売を買うケース。少し通勤に便利なマンションを購入するなどの方法で親との同居から独立したと想像できないか。特に地方では隣接しての住宅建設のケースが増えたように思う。実態調査はやっていないので想像での話だが、こうした住宅建設が増えた関係で建築基準法にも連担建築の法改正の根拠になったのではないかと想像する。

もし、親との同居ではなく、敷地内に新居を建設するという考え方が普及したとすると、実質的には高齢者と子供の同居が少なくなったと考えることは間違いではないかと思う。それが明らかに出来る統計データが確か住宅土地統計調査にある。『住宅の所有の関係(5区分), 家計を主に支える者の年齢(5区分), 別世帯となっている子の居住地(7区分)』というのがそれで、バブル期前後の動きを見てみるとその実態が明らかになると思う。残念ながらバブル前のデータが電子データとして公開されていないので少し調べなければならないが、その当たりから真相を探って見たいと思う。

clip_image001

「あなたは誰と住みたい?」と問われるとどう答えるのだろう。とりわけ1人で生きてきた場合には「1人で生きていく」と答えるかもしれない。親族や友人が近くにいて、一緒に住むことが双方の望みならば話もまとまるが、大概は別々の生活があるし、わざわざ一緒に住むことなど考えることさえ大変に思う。だから結局、独りで生きていくことになるが、どこか寂しいものがある。

実際に1人で生活している高齢者がどれほど居るのかを厚生省の報告で見ると、確かに年々増えているが、まだまだ10%台で夫婦か子どもと同居というのが全体の80%以上で、何だかんだといっても家族で住んでいるのが実態。やはり1人よりは家族のほうがいいに決まっているという認識になる。だから心のなかには1人での生活は「少しさびしい」という気持ちや「心細いなぁ」という心の侘しさを感じているはず。だから「おひとりさまの老後」の生き方をサポートする方法が欲しいと思う。

圧倒的に多い家族との絆は高齢者の生活を支えているのだが、家族に対しては迷惑をかけないで生きていきたいと思うのがこれからの高齢者なのかもしれないと思う。親子で生活していても親が80歳を超えて子供が50代に入っていると、「何れ私も高齢者に」という不安が過る。その時、今は親と同居していることに心の底には安心を感じているものの、いざ自らが子どもと同居するという選択肢はない。やはり自立して子供に迷惑を掛けないで生きていきたいと思う。親としては子供が自立した環境で生活をさせたいと思う。だから1人でも頑張って生きようと思う。そこに「安気な住まい」がある。

「付かず離れず」という位置関係。「友達以上親戚未満」「気心の知れた仲間」人と人の触れ合いは、適度な接点がある関係が望まれる。だからそうした住まいを求めて止まない人がいる。何時かは一人になる。子どもと同居している場合は、見送ってくれるので良いのだが、日常的な生活サイクルは子供とは違うし、親がいると異性との交際も制限される。親との同居が解ると相手も二の足を踏むに違いない。ならば子供は独立した生活をさせたい。それが普通の感情だから、子供に安心させるためにも「安気な住まい」は重要だ。

最近は子供を持たないケースも増えてきた。とりわけ賃貸住宅に住む単身高齢者世帯の30%は身寄りが居ない。だからこそ、こうした人には新しい擬似家族を育てたい。1人で生活していると結構頑固になる。その頑固さをぶつけあう勇気があれば、コミュニティは育つ。幾つかの心のハードルを超えれば気心の知れた仲間づくりができる。それが「安気な住まい」の真骨頂だ。どんな家族でも、どこかで最後は1人で生きる場が必要になる。老人ホームは一人暮らしの住まいではない。家族が親を誘導する施設なんだから、自分一人で最後を送るのは「安気な住まい」がやっぱりいい。

clip_image001

「家が欲しい人は地方が良い」というのは真実で、歴代の富山県や秋田県、福井県は東京の倍位違う持ち家状況がある。わざわざ借家に住む理由を探さなければならないほど持ち家化が進んでいて、代々家を継承している世帯も多い土地柄。そこに借家を見つけるほうが難しいといった雰囲気もある。

実は持ち家率高位の三県で嘗て都市計画の調査仕事に携わった者として、とりわけ公営住宅の計画をしていた立場から見ると、「賃貸住宅も機能していたなぁ」という感想がある。その時の公営住宅の役割は、子供が成長して結婚をすると、まずは住む家が必要になる。最初から同居という訳にも行かないので、これといって住みたくなる民間のアパートが見つからない場合に公営住宅に入るという選択だ。実は地方の新しい公営住宅は鉄筋コンクリート造のなかなか視野れたデザインの建物が多い。それも有名建築家のデザインだったりするので、むしろ民間アパートよりかっこいい。おまけに家賃も安いので、子供が生まれて、ダブルインカムの生活になるまでは公営住宅に入居するというのがパターンになっている。

さすがに、ダブルインカムでは公営住宅の入居基準を遥かに上回るので、実家に同居するか離れに家を建てるかで子育て支援に親を活用するというのが常套手段のよう。持ち家の多い地方ならではの住まいの循環である。ここでは公営住宅は低所得者のためと言うよりは、分家して子作りをするための産小屋的な位置づけ。決して住宅困窮世帯ではないように見受けられるのが地方の公営住宅の実態。

富山で見た例はこれまた東京では考えにくい公営住宅の利用方法だった。長く市の職員が市営住宅に住み続けていて、定年退職を期に中心市街地部に新しく出来たシルバーハウジングに夫婦で入居しているというパターン。市の職員が長らく市営住宅を社宅のごとく使っていて、最後は市営住宅でもあるシルバーハウジング・プロジェクトの特典を受けて居住するという一連の流れは、どちらも低所得で住まいのない困窮者に提供されるはずの公的賃貸住宅が、現役時代にはそれなりの給与をもらい大枚の退職金をゲットして、しかも三段重ねの年金を受け取りながら税金で建てた民間を凌駕する品質の住宅に守られて住み続けているという選択は、いやはや住まいの処世術からすると、あっぱれという他無い。いや、これを見て見ぬふりをしている行政側に同僚を守りぬくという友達思いの精神があったのだと思うと心温かいと考えていいのか、現場を見るとわからなくなる。

持ち家率の高い地域では公営住宅は、古い住宅は別として、新築の建物は普通の民間賃貸住宅よりも高級な住まい。新築だから当初の家賃も比較的高くなるので、本来の低所得層は入居せずに入居基準を何とかクリアーした婚約者や就職間際の若い世帯が入居希望を出すことになる。だから新築公営住宅は倍率10倍にもなるのに古い公営住宅では空き家が目立つというバランスの悪い状況になっている。なんだか公営住宅の供給そのものが不公平を生んでいるようで、住宅政策の矛盾を感じてしまうのは私だけではないはず。概して持ち家率の高い地域にこうした矛盾が生まれているようだが、これは国の全国一律の政策そのものの問題にようにも見える。

これを逆手にとると、東京にいるよりも富山や秋田や福井に引っ越すほうが豊かな生活が送れるように思うのは間違いなのか・・・・?

clip_image002

持ち家か借家かで悩む人は少なくない。特に転勤族には持ち家派は少ない。いつ転勤を命じられるか判らないので定住を決められない。だから家は賃貸を選ぶ。今ひとつの賃貸派はシングルである。身一つで生活すると仕事や生活に便利な場所で住みたいと思う。1人だから住まいもコンパクトでいいので駅近くのアパートが便利だと考える。

まあ、こうした根無し草が集中するのが東京という所。だから東京の持ち家率は低い。ここの所45%が持ち家率といった状況が続いているのだが、総世帯数が増加している割には持ち家率が減らないのは、持ち家の供給が潤沢な証拠。最近の低金利は家を買える人は、大概家を買うことを支えており、持ち家傾向になっているようだ。比較的質の高い中古住宅の流通も広がってきており、持ち家取得に対する環境も整い始めている。

さて、持ち家傾向が強まれば次第に賃貸住宅が空いてくる。つまり賃貸住宅というアパートは入居者が持ち家に走れば空いてくることになる。空き家が増えれば賃貸経営が成り立たないので、家賃相場は下がる。ということは家賃相場が低い地域は空き家が多いという結果にもなる。これについての検証は後述のブログに譲るが、まずは東京はバブル期末期には都心回帰で持ち家傾向に強い動きがあり、今は概ね持ち家率は停滞しているが持ち家の絶対数は依然、増えているという事であろう。もともと東京都の持ち家率は全国最低ではあったのだが、最近になり持ち家率が高まったのは転勤族も少なくなっているのかもしれない。

一方、他の道府県を見ると持ち家率は比較的低いのだが、東京とは異なった動きを見せているのが沖縄県。持ち家率が一方的に下がっている。やはり他県から流入人口が継続していると見ることが出来る。人が入ってくるのに対応して持ち家住宅が不足していれば賃貸居住が多くなるというのは原理で、人は何処かに住まなければ引っ越して来れないのだから、何とか家賃が高くても居住の場を求めようとする。沖縄に転居する動機が第二の人生を温かい地でとなると、戸建住宅やリゾートのマンションなどを借りて住むという選択がある。最初から持ち家ではなく、まずは借りて住むという選択が普通の考え方。本気で沖縄に住もうと思ったら住まいを買う段階に入る。

それにしても全国を比較すると、各地の住宅事情は多様で、IUJターンを今後の動向として受け止めるなら、意外と東京集中より九州や四国方面に移動するのがいいようにも思えてくる。沖縄という選択も勿論あるのだけれど、温かい地への移転は沖縄だけではなく、紀伊半島や千葉は房総半島、そして九州は鹿児島県や四国は高知県など、海を抱えて温かい地域に台風にはめっぽう強い住宅を買って住むという選択は大いにあるなと思うのだ。

仲間を誘って移住するか???

clip_image002

上野千鶴子著「おひとりさまの老後」は女が主役なので、男女の区別はない。というより一人暮らしを受け止めるのは結局、女なのだからそれでいいというのが判断だったのだが、その本が売れたから「男おひとりさま道」が生まれたといっていいだろう。だから本音で言えば男なんてどうでもいい。まずは女であるというのがジェンダー論の論客である上野氏の本音だろうと思う。

というのも、「男おひとりさま道」は如何にも尻に敷かれる亭主像を語っている。何とか男を女の配下であるように、そうなることが平和だし、男も幸せになれることを解いていく。「かわいげのある男」が上野氏の男に対する提案だとあとがきに書いているが、男の立場でいえば、それは間違い。女に可愛がられようなんて思うほうがどうかしている。男は孤高でいることを由とすべきだと思う。ただし、男も女もなく社会の一員としての役割を全うするのが本来の姿だが、男として与えられた役割を全うするのが男子の本懐であると考えている。

このポジションの考え方は実は男も女も同じだと思っている。男にしても女にしても自立していない奴はパートナーだって友人だってできない。「可愛げのある」女も男も決してモテない。程度の差はあるとしても、自立した意識を持って自らの生き方を持っている人が、相互に尊敬する関係を深めることが出来る。それが基本だと思う。

団塊世代の女性にしても男性にしても、今後の人生を1人で生きるとなっても、決して孤立しては生きられるものではない。もし、ゴミ屋敷を守って生きようと志向しても、周囲は認めないし、孤立して死ぬことを選択しても、社会はお節介を繰り返すようになる。決して孤独死を奨励する社会にはならないし、何かと大きなお世話を繰り返すのが世の常だ。

私は男だが、まずは社会的な人間だと思っている。そして社会にいる以上、自分に出来る事があるはずだと考えている。得意な料理もある。好きな仕事もある。やりたい夢もあるし、生きられる間に実現したいこともある。それは一つではない。前に向いていれば幾つものやりたいことが生まれてくる。そう人間は欲張りである。だから次々に目標が生まれる。しかし、何時かは死んでいくことも承知している。

すでに友人の何人かは他界しているし、自分だって意外と早く逝くかもしれない。こうした中で、最大限というか無理なく前向きに生きていけることが大切だと考えている。それは男も女も同じだし、そこに人間の進歩があるのだと思っている。自己の研鑽は楽しい。昨日までわからなかったことが理解できた喜び、昨日までできなかったことが出来た喜び。それは生きがいだし、人とともに生きることでさらに喜びも増す。特にパートナーがなければならないという事ではない。友人なり仲間を作って物事を前にすすめる楽しみが出来れば、喜びは消えない。そろそろ男女の区別を言わないで前に進めよう。

このアーカイブについて

このページには、2012年10月に書かれたブログ記事が新しい順に公開されています。

前のアーカイブは2012年9月です。

次のアーカイブは2012年11月です。

最近のコンテンツはインデックスページで見られます。過去に書かれたものはアーカイブのページで見られます。

ウェブページ

Powered by Movable Type 5.12