「永山ハウス」には医者が居る。在宅医療を実践する医者が身近に居ることで安心を確保している。少なくとも1回はその医者にカルテを作ってもらい、患者の一人として登録が済んでいる。しかし、近くに医者が居ても緊急時にはやはり救急車が頼りになる。夜間や休日には個人医院は対応が難しい。医者だってプライバシーがあるのだから常に係わっていられないのが本音。「医は仁術」は誤解で基本は医者も商売である。つまり「医は算術」が正解。ただ医者が誠意を持って対応しているか否かが問題。私の家の近所に患者の目を見ないで診察する医者が居て評判が悪い。誠意は態度で決まるのである。医者と言えどビジネスは共通する。
医者は病気になった患者に対して病名を告げ、回復治療を施すか延命治療をするかしか患者に対する役割がない。そして最後の仕事として死亡診断書を書けるのは医者のみである。「死を看取る」とは言うものの、目的は死んでいるか生きているかを判断する役割であって、死に行く者の哀れを常に感じつつ見送っている訳ではない。高齢者等の最後の看取りは、むしろ家族や介護スタッフが担っている。だから医者に期待しても仕方がない。強いて言えば死にゆく患者に延命措置を講じることが出来るのは医者のみだが、それであっても人生の中の数日から数ヶ月、活かされているという状態を続ける意味は本人には全くない。むしろ活かされている状態が必要な人にしか施されることもない措置である。
人は何時かは死ぬ。その時が互いに幸せでいたいと思う。死にゆく人と見送る人が互いに感じあって最後を過ごしたいものである。「ありがとう」と感謝を述べて逝きたいと願うのも人間の思いだろう。何時の日からか「病院で死ぬ」ことが常態化されたのか。自宅で家族に看取られて死ぬことが出来なくなった。「自宅で死者を出すと不動産価値が落ちる」などということがまことしやかに話題になる。人が病気で亡くなったり、老衰することは当たり前のこと。こうした死に際にチャチャが入る世間の風潮は戒められるべき事。これこそ教育の問題で、人の死を見つめることを子供の時から教えよう。
自宅で葬式を出すことも無くなった現代。私たちは翻って地域社会を見つめ直すことが必要だ。医療も介護も外部委託する世の中。実は家や近隣の中にも医者の資格は無いが、風邪かどうか位は判断できるし40肩なのか帯状疱疹なのかを判断したり出来る人材はいる。何でも専門家を頼るのでは、いくら医者を育てても意味がない。余計な経費を掛けるだけで必要な医療が見えなくなる。介護だってそうだ。元来、畑仕事で身体を使えば健康を維持できていたしそれを売れば小遣いも手に入り、精神的にも自立していた。それを年金一辺倒にするものだから、買い食いに走り健康を害することになる。医者の前にまずは野菜作りを始めることで、健康で過ごせ老衰で死ぬことが可能なのだ。そういえば昔は老衰が多かったように思う。