2012年2月アーカイブ

私の住んでいるホームタウン南大沢団地ではここの所改造工事が盛んに行われている。とりわけ1階の改造が人気であるが、住みながら改造するにはそこそこ覚悟がいる。工事中が大変だという問題もあるのだが、基本的には住み続ける覚悟が無ければ大きな投資には及ばない。改修工事は少ない費用ではない。設備を伴う改装は1?10万が相場だとすれば我が家でも900万は必要だ。それだけのまとまった投資をする以上、生涯をそこで住み続けようと言う意志が必要になる。そもそも改造に手を掛けている世帯は子育てを終えた熟年夫婦の世帯ばかりだ。子供にも手が掛からないというか子育ての費用も目処が立ち、後は老後を含めて自分たちの豊かな生活を支える環境づくりだと考えれば、余裕があればチャレンジしようと思うのも最も。それも1階であれば住み続けられるという見込みも高い。

私の住む団地にはエレベーターが無い。だから1階は高齢化に有利だ。実際、最上階が売りに出るケースが増えていて不動産評価も思いの外低い。以前、マンション業者が言っていた「日本人は高いところがお好き」という皮肉ったような思いは既に無くなって、防犯的にも湿気などにも弱い1階が人気なのだ。やはりバリアフリーとまでは言わずとも将来については何とかバリアーを克服することが自力でも出来そうだという見込みがある。思えば階段型の住棟はプライバシーが確保されてグレードから言っても片廊下よりはリッチ。そんな気持ちで全国に階段型の住宅を建設した。それなのに今はエレベーターを設置しても効果が薄いとして遠慮される時代。人の価値観によって大きく変わる建築様式に閉口する。

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最近の日本人も新築を求めるのではなく、住宅を改造して住むようになったかと思うのだが、実は本質が違っている。イギリスのそれはDIYが基本で居住者自らが住まいの改造に取り組むのが普通。欧米の考え方はスケルトンで受け取り、自ら自分にあった住まいに改造するのが基本。古い建物を何代にも渡って利用するという生活習慣が、こうした仕組みを育ててきた。日本の住宅はせいぜい25年平均で建て替えられるのだから古い建物を譲り受けるときには建替が前提になる。それが漸く建物一代の中で2回のインテリアを選択できるという時代にはなったようだが、まだまだ他力本願が抜けないでいる。

イギリスでは自分たちで住まいづくりをする伝統があるので、住宅部品にも凝るようだ。古い便器や浴槽を使ったバスルームを利用して計画したり、シャンデリアは由緒ある建物に使っていたものだったりと、小物に凝ったり、古い石や古木を使ったインテリアも定番だ。欧米の住宅雑誌にもそうした内装のアラカルトの特集が組まれていて雑誌の中心的な情報になっている。しかし、日本ではまだまだ自分で手を出すとまでは行かないのが残念。そろそろ自らの余暇時間を住まいのグレードアップに投入してはいかがか。壁紙を張るのも土間を塗るのも自分たちで出来る仕事。何も健康の為にエアロビクスしなければ元気にならない訳ではない。住まいをちまちまさわっているだけでも元気の泉は沸きだしてくる。そうだ、私もやってみるか。というのも業者任せに出来るほど資金が潤沢ではないのが本当の理由かも。

住まい作りを提案するときには公営住宅に入居している人には奨めないようにしている。いや以前は奨めていたし、企画するプロジェクトにもお誘いした。しかし、止めた。何故か。それは高齢者にとって家賃が最低にランクされていて、年金生活者にはこの上ない経済環境を提供してくれるからだ。多少バリアーがあっても市場経済環境には勝てないほどに家賃が安い。基本的に高齢者の収入は年金のみで有れば、東京都の都営住宅ではせいぜい5千円から1万円くらいで入居できそうだ。民間の家賃体系ではあり得ない低価格が補償されていて、更新料も無ければ定期的な収入が相当増えない限り退去するには及ばない、安心の住まいなのだ。そんな居住環境を得ている人に無理強いして「安気な住まい」にお誘いしても意味がない。そう判断している。

かつて「永山ハウス」を企画していた折り、都営住宅に居住している男性が興味本位なのか説明会に来られたことがある。意見は様々言われていたのだが、結局の所、結論は都営住宅に勝るところは無しという事だった。長く公営住宅の建て替えや自治体の手伝いをやって来て、その辺りの事情も解っているし知り尽くしている。実は公営住宅に居住している高齢者も行政の無策ぶりに呆れて自ら何とかしたいとは思っているのだが、価格の安さから抜け出せない事情が、これを機会にハッキリ解ったことになる。私もそこで諦めた・公営住宅は高齢者にとって最高の生きる場所だからもう手出しはしないと・・・。

だったら全国にある公営住宅に優先的に高齢者を住まわせれば良いではないかという意見が出る。実は優先的ではないにしろ、高齢者が公営住宅に集中している。なぜか。それは低所得で持ち家を持たない家族しか申し込めないし、単身世帯の場合60歳を迎えないと入居申し込みが出来ないと言う仕組みになっている。従って60歳になってアパートでひとり暮らししている高齢者は100%申し込む。アパートの家主も老人に長居してもらいたくもないので応援するだろうし、公営住宅は高齢者を拒否できない。いわば孤独死OKの老人施設に移行するという流れが作られている。公営住宅の社会的な役割だとか福祉的な措置だとか言う前に、高齢者を拒否しないし、低家賃だという理由だけで集中する。供給戸数は限られているから空き家に申し込みが集中すると若い世帯は、はじき飛ばされ高齢者が集中する。これはイタチごっこ。単身高齢者が集中する公営住宅が全国に顕在化している。

結婚して子育てをしている高齢者は自宅を購入することが一般的である。しかし、独身で過ごした高齢者は賃貸居住が多い。必然的に公営住宅に入居する条件が整う。そして孤独死予備軍となる。政策的に高齢者向け優良賃貸住宅だとか高齢者に居住支援がある住まい作りを国は提案するが、焼け石に水。とりわけ単身世帯の多い大都市では対応が遅れて、大規模団地でも単身高齢者の山が出来るほど。こうなると手の施しようがない。

朗報を一つ。関東でも群馬、栃木辺りでは公営住宅の空き家が目立つ。人口減少に気を揉んでいる自治体が殆どで、市外県外からの転入者も受け入れている。市営住宅や県営住宅の空き家狙いで、物価の安い地方での生活の方が年金を有効に利用できると思う。私の場合も多摩ニュータウン地域で限界を感じたらそんな選択も有りかなと思っている。地方で畑を耕すのも良いか・・・。

コーポラティブ住宅をスムーズに推進する為の課題は二つある。一つは参加者募集であり、今ひとつは土地の取得である。コーポラティブ住宅は共感するメンバーが集まっての家づくりだからコミュニティが当然必要となり、少なくとも選定する土地を有効に活用できるメンバーが必要になる。実際の数あわせにはなかなかハードルが高いので、地権者の経営する賃貸住宅と組み合わせるケースが、事業を早期に達成するためには必要な手段である。しかし、土地の位置などで参加者と折り合いが付かない場合はご破算になるケースもある。

こうした土地選びの難しさに対する方法としては多摩ニュータウン内にある都市機構や東京都の土地を購入するという手段も可能である。たとえば多摩市にはURが売却している小規模敷地が多摩市落合や鶴牧にあり、コーポラティブ住宅には適地である。また、稲城市や八王子市圏域にも購入可能な土地はあり、こうした土地を確保する方法もできる。住宅開発をビジネスにするディベロッパーなどの思考方法は、あくまでも土地を仕入れて販売するという考え方で、売れ残りリスクを背負うものだから販売価格にリスクを相当乗せて販売することになる。しかし、コーポラティブ住宅事業では購入者が土地を購入する仕組みだから販売リスクは無くなる。ただし、土地を個人で購入する訳には行かないので、「永山ハウス」の場合は首都圏不燃建築公社に間に入ってもらい実現した。

民間の地権者とのコラボレーションの場合は、地権者との共同事業とするため、借地などの手法も用いて事業スキームを組み立てる必要がある。地権者の利益、参加者の利益などを調整しながら最適な取り組みを生み出すことになる。また、条件によっては中古物件の再生なども視野に入れた計画が可能で、大規模にコンバージョンした住宅計画も可能である。このように民間とのコラボレーションは土地の買取から中古建物の活用に至るまで多様性があり、また農地などの取り込みや施設との同居などの可能性が広がり、状況に合わせたアレンジが出来るという点では優れている。

何れにしても土地の選定に際しては参加者が整ってからの交渉事になるので、最初の段階から土地を模索することは最終的に最適な土地を選定するためには既成概念を植え付けることになり、「土地は語らず生活を語る」というスタンスで安気な住まいづくりを進めていくことが寛容である。まずはコミュニティ形成があって初めて土地の候補が生まれてくる。今後の社会情勢を考えると、都市機構などの小規模な土地については売れないと思えるし、民間の地権者も、まもなくやってくる大地震を予感させる状況では、むやみに建物を建てることに慎重になる。ましてや住宅余りの時代に賃貸住宅を供給しても入らないと言うリスクを背負うには無理があるという状況である。今後は住み手が決まってから土地や建物を利用するという手法が現実のものになる時代が来ている。むしろ売り手市場ではなく買い手市場のマーケットが生まれてくると考えている。

『自然体で生きる』とはどうするのか。言葉として説明しにくいのではあるが、何となく納得してしまう言葉である。物事に逆らわず、ありのままの自分で居るという意味だと思うが、その「ありのまま」が解らない。『私は何、私の本性って何』すら解らない自分に有りの儘の生き方なんて出来るはずもないのに『自然体で生きる』と言うと人は何となく納得する。元々人間の自然な姿とはどういうものなのか、衣服を着た動物だから着飾ることもあるし、様々なシチュエーションでTPOも違ってくる。だから「着こなし」と言いながらお洒落を楽しんだり、他人と差を付けようとする場合だってある。それがその人の本姓で有れば自然体という解釈になるのかどうか・・・良くわからない。

私たちは自家用車を選ぶときに、財布と利用目的とデザインについて考える。財布というのは経済力で、支払える範囲のものを原則にするが、時々デザインに惚れて財布のキャパを超える買い物をする人も登場する。これは住まいと一緒で、払いきれなくて中古で処分してもローンが残るケースにならないように気を付けるべきだが、往々にして車好きはハードルを越えてしまうケースも有りそうだ。意外と目的はせいぜいデートくらいで、日頃は自宅で雨ざらしになるしかないのに、拘って買うとしっぺ返しが怖い。若い頃はとかく背伸びをしたいもの。見栄っ張りだとついつい手を出してしまうが、私の場合はもう60歳を過ぎた。そろそろ背伸びをしないで生きようと思っている。しかし、そろそろ車検だと思うと次の車に関心を持つ。ディーラーも其処のところを心得ていてタイミングを見計らってカタログが届く。今度のカタログは電気自動車だった。

省エネだとか自然エネルギー利用などを進めたい私には電気自動車は一つの解答ではある。しかし今の電気は自然に優しくない。原子力発電も火力発電も自然に優しくない電気を作っていて、その電気を使うことを前提とした電気自動車は自然に優しい自動車ではない。むしろガソリンを効率よく利用するハイブリットの方が今のところ自然に優しい車だと思える。とりわけ現状の発電会社の価格構成は、高給取りの給与体系をで、天下りや関連会社の給与や会社の資産なども含めて電気代に換算されている訳だから決して安くない。世界でも上位に位置する高級電気が日本の電気である。わざわざ自動車の蓄電池の為に高級な電気など必要ないのだから、もっと荒っぽく発電したエンジンから生まれた電気で充分。それがハイブリッド自動車だと考えている。

もし、何らかの自然作用から水素が潤沢に蓄積されるようになれば、水素自動車が普及するようになる可能性がある。私にとっての自然エネルギー利用の自動車は水素で走る自動車を待ちたいと思う。水素さえ上手い循環で生み出せば、燃やして水になるなんてのは理想的な循環。どなたか開発をお願いしたいのですが・・・

持続可能な住まい作りを進める中で、今回は共に暮らせる住まいを提案している。第一弾の「浄瑠璃プロジェクト」は個別住宅の団地的集合体。戸建て風タウンハウスタイプのセミデタッチドハウスと4戸のフラットの6棟の組み合わせ団地。コミュニティも住戸単位での付き合いになり、日常的な挨拶よりは週末的なイベントが中心となる。第二弾の「永山ハウス」は1階の共有部分を通じて日常のコミュニケーションが可能になった。挨拶のみならず自ずと1階で会話が始まる。1階ホールの大テーブルにはお裾分けの品々が揃う。そして外部からのアクセスも盛んで集会所は毎日にぎやかである。そして第三弾としての「安気な家プロジェクト」である。

第一弾では単身高齢者の参画は無かった。第二弾では1/3が単身世帯でその中に高齢者単身世帯が殆どを占めた。集合住宅は小規模住戸を可能にして43?から105?の住戸の混在を許した。結果として新婚世帯から子育て世帯、熟年家族、高齢単身世帯まで様々な家族が寄り添った。おまけに1階には訪問医療も手がけるクリニックとレストラン、そして住民を見守るNPOが入所して生活を支える環境が整った。しかし、事業的には分譲タイプであったため一時的な費用を負担できる家族しか入居できないと言う制約があった。世代を越えたコミュニティが形成されたのだが、そこには後継者の居ない高齢者が居住する余地は無かった。

居住者による土地購入が前提であったプロジェクトは賃貸居住を許さない制約が出る。当初から参加者が運営する賃貸住宅を作る場合もあるが、無理して住宅ローンを組む世帯にはハードルが高い。「永山ハウス」はスケルトン部分の1階を店舗に利用することで建設費の負担はあるものの、賃貸料収益でマンションの管理費と修繕費を賄うシステムが出来た。しかし賃貸住宅までの投資は難しい。とりわけ分譲の中での賃貸利用は利用者意識がどうなのか、運営にはリスクが有りそうである。恐らく賃貸需要は有ると思うが、当初からマンション購入者に理解を促すことは困難だと思っている。

従って第三弾は賃貸でのコミュニティか、賃貸と分譲の合体を狙っている。地主と入居者の協同事業としてのコーポラティブ住宅である。多摩ニュータウン周辺には土地を有していて有効利用できていない地権者が多い。比較的便利な土地でも駐車場として利用していたり、農地のように使っていたりと未利用地が散在する。宅地並み課税を避けて生産緑地として課税を軽減している土地も多く、相続税対策や就農の限界を感じている地主も多い。こうした地主達はアパート業者から賃貸住宅建設を勧められて賃貸物件を建設する例が多く見受けられるが、空き家リスクは不安で、「借り上げ補償」という言葉に騙されて、将来的な付けを残すことになる。こうした地主に対して入居する人が決まっているコーポラティブ住宅造りでコラボすることをお勧めしたい。

持ち家と賃貸の共存は若い世代から高齢者までの混在が可能だ。マンション形式の地権者分譲タイプの事業で有ればリスクが回避され、購入者も原価で購入できる。地主としても賃貸入居者が決まっているのだから安心して賃貸住戸を供給できる。空き家リスクも永続的な入居者が居ることで不安は解消されるしコミュニティがしっかりしている分、将来的な建物管理にも不安はない。おまけに企画段階で居住者の必要な施設を整備することも出来るし、住まいの形も多様に展開できる。子育て支援と単身高齢者の安心居住のコレクティブ住宅だって実現可能だ。本来の住まいの原点である、多世代が集まるコミュニティこそが目標なのだ。

生きていることに喜びを感じることは何だろう。毎日が幸せと感じる人もいるだろうし、活かされている自分が憎らしいと思っている人もいるかも知れない。いつまで経っても自己実現が出来ない不幸を感じている者もいれば、朝餉夕餉に幸せを感じつつ感謝を述べているキリスト教徒も居るだろう。人の幸せを一言で言い表すことは出来ないし、多様な人生を一律の幸福論で集約することにも無理がある。誰しも置かれた位置が異なり、人生の背景も異なるので幸せ感も違う。ただ、共通なのは前に向いて進んでいるという実感があれば充足感はあり、幸福感に繋がると思う。少なくとも成長していると感じることの一定の快感は心を安定させる効果がある。

だから戦後の多くの日本人は幸せだった。池田勇人首相の『所得倍増論』が三種の神器を手に入れる物に対する欲望を満足させたし、田中角栄首相の『日本列島改造論』で全国の土木関係者は喜び地方自治体も潤った。そしてオイルショックから低成長時代が始まるが、右肩上がりは尚続き、決して劣らない人口増加と都市の拡大は日本人の希望として続き、最期にバブル崩壊という運命的な経済ドラマを体験して経済は後退局面へと変化していった。そして人口減少と共に都市の縮退が議論され、日本の舵取り役も瞑想して道しるべを失った。国民は紆余曲折の迷い道。世界もバランスを失って、不安が過ぎり自らの人生の置き所を模索する。

多くの不安が混沌として、進むべき道が見えない状態では人の心は定まらない。こんな時に宗教が台頭する時代も有ったが、情報豊かな現代社会である。もう少し科学的なスタンスで希望を見つけようではないか。そんな時に、自らの健康と生きている喜びに感謝する気持ちが欲しい。生きていることがやがて人生の喜びを感じさせてくれる。生き続けていくことは前向きで無ければ続かないので、結果として充足感を生む。確か太宰治も『反物をもらったので少し生き続けることをしてみようか』などと言うフレーズで延命したということを認めていた記憶があるが、人生とはそういうもの。

私にも人生の道しるべを失った時機がある。バブル経済で浮かれて、いつの間にか仕事が無くなったときに、自らの社会的役割を問うた。あふれるように与えられた仕事をこなすことで、時を無為に過ごして経済も潤った。しかし、自ら進めたいと思う仕事ではなく、むしろやりたい仕事より目の前にあふれる仕事に追われた日々。いざ目前から仕事が無くなると極端に不安になり、自らの生きる方向を失うことになった。不安に駆られ、自らを見直す日々が続いた。

その時に見つけたのが、居住者による住まい作りだった。ずっと気になっていて実現したくても、出来ない環境にいた。そしてバブルがはじけて初めて理想の住まい作りと真っ正面で向かい合うことが出来るようになった。そして『浄瑠璃プロジェクト』『永山ハウス』と実現して、漸く住まいのあり方が見えてきた感がある。これからは生きている感謝を全面に押し出して、理想の住まい作りに邁進していきたい。

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