ちょうど、30代が事務所を立ち上げて以降の新規業務の開拓の時代で、40代になり開拓した仕事が大きく膨らみ実を結ぶことになった時代。そして50代になっていた。その時すでに下請け仕事は無くなっていた。元請けを受注したいと、近隣市や関係のあった自治体に指名願いを申請して仕事を始めたところ、意外にも幾つかの自治体から多様な業務が舞い込んだ。その一つが小笠原での住宅調査である。小笠原諸島だから東京都からの仕事で、指名をもらい入札で請け負った。業務内容は都営住宅の調査だったが、なにより嬉しかったのは仕事で小笠原に行けることだ。早速調査にと小笠原丸への乗船となったが、現地調査の前に島嶼部の住宅事情を調べる。全国の島嶼部の自治体にアンケートを配布して集計する。もともと日本の島々の数など知るよしもなかったのだが、これを通して島通になった気分だ。そして現地調査。竹芝桟橋から25時間30分の船旅だ。こんな仕事でもない限り乗ることは無かったであろう、3泊6日の旅である。八丈島へは船旅も体験したが、その倍の時間がかかる。覚悟を決めて船上の人となる。
50代で多摩ニュータウンの中核市、多摩市の住宅マスタープランにも関わった。それが多摩ニュータウンに対する興味の始まりだったし、その勢いでNPOを通じて多摩ニュータウン調査に参加した。いいタイミングで興味のある分野での仕事が身近な情報となった。東京都の大規模団地、桐ヶ丘団地や仙川団地の建替計画にも関わった。思いがけず収穫を得た仕事が出来た。それにしても50代はボランタリーな活動が主になった。1999年にNPO法が誕生して多摩ニュータウン最初のNPOに関わり、住宅支援事業を立ち上げ、さらにコーポラティブ住宅作りにエネルギーを費やした。14世帯のコーポラティブ団地を2004年に完成させ2009年には23世帯のコーポラティブマンションを建設した。そして60歳となった。今は60代をどう生きるかを考えている。
幸い、地域で人間関係が生まれ、さらに地域活動を通じて外部に人的な繋がりが増えた。それが財産であり、恐らくこれからの人生の中で外部との関係性を形成する糸口であると考えている。今後の取り組みは、50代でチャレンジした住まい作りやコミュニティ作りの集大成に向かうことになる。また、環境共生や長寿命住宅作りの標準化や、団地やマンションのバージョンアップに向けた取り組みが主たる行動目標になろう。建築的にはオープンビルディングの思想を実践し、コミュニィ作りとしては経済的にもバランスの取れた真のコミュニティ形成を目指すものである。そこで、僕の立場はコミュニティ・アーキテクトという称呼で表現することとした。
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