2012年7月アーカイブ

石川啄木が『ふるさとの訛りなつかし 停車場の人込みの中に そを聞きに行く』と「お上りさん」の心境を詠ったが、今では「お下りさん」が話題になる時代。啄木は明治の人(1885年(明治18年)生まれ)だから、上京して後100年の上野駅に東北から上野駅を目指した就職組は相当な数。その人々がやがて家族を持ち定住していく流れになった。1923年(大正12年)関東大震災で被災して、一時的に分散するものの集中は続き、そしてオイルショックの1970年台まで増加が続く。その後、40年間は横ばいといって良い。

私が上京したのは1967年(昭和42年)だが、最後の「お上りさん」世代、つまり団塊世代でピークを迎え、その後は安定した。とりわけ戦後の朝鮮特需で始まった神武景気、それに引き連れて益々上京する人々は増え続け、地方では「三ちゃん農業」、都会では「鍵っ子」が社会現象化して、東京オリンピックで江戸時代の運河が高速道路になり、中流意識が広がり核家族化が主流になるが、いざなぎ景気は日本万博ころから停滞し始め1973年(昭和48年)の第一次オイルショックでピリオドを打つ。それが大都市への人口集中の終焉だった。

それからの人口動向は一進一退を繰り返していて、最近は地価の下落から都心回帰が叫ばれて、その様相も見えるが、基本的には人口推移は安定していると考えるべきだろう。

すでに大阪の人口推移は下落が始まっていて、都心部の再生などを講じる施策が取られて入るが、過密すぎる都会はやがて飽和状態から均衡ある土地利用を目指して進むし、集まりすぎた人口は、その環境条件に合うようにバランスを求め始めるのが生物的な原理。だから今後の日本全体の人口減少を受けて、東京も大阪もそれに見合った人口集積の均衡を生み出していく。それがどう進んでいくのかが興味のある所。とりわけ地方出身者には「田舎に戻る人がどれほどいるのか」「東京圏から離れる人がどれほどなのか」気がかりというか、自らも東京と桐生市を結ぶコミュニティ連結の仕組みを模索しているものだから、どうしても気になってくる。

戦後の人口推移を国が解説している。首都圏人口の伸びは2010年で3.3%増となっている。もちろん全国ベースではこれから減少し始めるのだから伸びも0%となっているが、今後、日本の中で東京が占める役割をもう少し厳密に検討しなければ、今後の真の動きは見えなくなるとも思う。とりわけ多摩ニュータウン地域の人口動向など、首都圏人口の動向の中でのさらなる役割を見出してこその想定である。すでに右肩上がりではない状況を真摯に受け止めた政策是正が必要な時代であることは確か。そんな中、あなたはどうする。第二の人生を何処で過ごすかは大きな課題。

2012年7月21日の朝日新聞朝刊に『日本人は国外脱出増える?』というタイトルがあった。企業の海外移動が日本人の海外組を増やしているようだが、人が求められる環境が海外に移れば、あの『停車場』は、シンガポールか上海などの空港になるのかもしれない。

clip_image002東京への人口の流入は、だいたいオイルショック当たりで終わっていて、その後はズルズル動いているのだが、首都圏というくくりで見ても同様な動きに成っている。そして今後の動きはというと、全国的な人口減少の割には東京の人口は安定していて増加傾向は今後も多少残るものの停滞し、概ね今後10年後には減少期に入ることが予測されている。一方、大阪はすでに下がり始めていて、今後の上昇は考えられない。それほど日本全体の人口は減少するという流れだから人口減少が当たり前の社会になると思えば何も心配することはない。「赤信号みんなで渡れば怖くない」という日本社会である。実は世界の常識では「赤信号みんなで渡れば交通事故」なんだから、なんて日本人は安心社会に住んでいるのかと思うとホッとする。だから、地方に住み移っても危険は無いし何処にいても同じ公共サービスが受けられるという特典がある。だから沖縄に人は集まる。

私の育った街は香川県丸亀市と多度津町。それに高校時代は坂出高校に通った。母親の実家が高松だから、夏休みに親戚に行くのは高松だった。何れにしろ讃岐で高校までは過ごしている。その田舎が今どうなっているか、これからどうなっていくかが気にかかる。そこで人口社会問題研究所のホームページを訪ねてみる。すると以外や以外、余り人口が減っていない。とりわけ城下町の丸亀市、それも大手門からの通り沿いで育った記憶の熱い丸亀市の人口がなだからな推移を見せていることに安堵すらする。今後も丸亀は捨てたものじゃないと・・・。では、実家のある多度津はというと、確かに全体は減少しているが街としての2万人は立派なもの。私の設計した上質(自分で言うのもナンですが)な公営住宅もあるものだから、少しは人口定着に役だっていると嬉しい。

讃岐には独特の方言がある。それも西と東では言葉そのものが違う。店で買い物をするときには高松では、『ください』を『いた?』といい、丸亀では『つか?』という。テレビ文化が進んだことから、今ではそれほど感じられないとは思うが、出身地の壁は少しある。だからこそ、出身地に戻りたいという意識は高くなると思う。東京で結婚して子育てを終えた未亡人が、東京にも拠点を持ちつつ育った田舎と行き来する姿がある。リストラで早期退職した男性が家族を東京に残して、実家に戻り母親と畑仕事に性を出すという姿も普通にあるようだ。特に田舎に畑や実家があるお上りさんには、良いタイミングかもしれない。

私の場合は実家には兄の子供が住んでいるので戻れないが、畑などの耕地を持っていて、晴耕雨読の生活が保証されている場合は選択の余地は大きいと思う。できれば夫婦でと思うのは甘えん坊の夫の意見かも知れないが、子育てが終わったり、インターネットなどを使える環境が整っていれば、田舎の生活も豊かなはず。そういえば高知県の馬路村はゆずで名を上げた。香川だって・・・。

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ちょうど、30代が事務所を立ち上げて以降の新規業務の開拓の時代で、40代になり開拓した仕事が大きく膨らみ実を結ぶことになった時代。そして50代になっていた。その時すでに下請け仕事は無くなっていた。元請けを受注したいと、近隣市や関係のあった自治体に指名願いを申請して仕事を始めたところ、意外にも幾つかの自治体から多様な業務が舞い込んだ。その一つが小笠原での住宅調査である。小笠原諸島だから東京都からの仕事で、指名をもらい入札で請け負った。業務内容は都営住宅の調査だったが、なにより嬉しかったのは仕事で小笠原に行けることだ。早速調査にと小笠原丸への乗船となったが、現地調査の前に島嶼部の住宅事情を調べる。全国の島嶼部の自治体にアンケートを配布して集計する。もともと日本の島々の数など知るよしもなかったのだが、これを通して島通になった気分だ。そして現地調査。竹芝桟橋から25時間30分の船旅だ。こんな仕事でもない限り乗ることは無かったであろう、3泊6日の旅である。八丈島へは船旅も体験したが、その倍の時間がかかる。覚悟を決めて船上の人となる。

50代で多摩ニュータウンの中核市、多摩市の住宅マスタープランにも関わった。それが多摩ニュータウンに対する興味の始まりだったし、その勢いでNPOを通じて多摩ニュータウン調査に参加した。いいタイミングで興味のある分野での仕事が身近な情報となった。東京都の大規模団地、桐ヶ丘団地や仙川団地の建替計画にも関わった。思いがけず収穫を得た仕事が出来た。それにしても50代はボランタリーな活動が主になった。1999年にNPO法が誕生して多摩ニュータウン最初のNPOに関わり、住宅支援事業を立ち上げ、さらにコーポラティブ住宅作りにエネルギーを費やした。14世帯のコーポラティブ団地を2004年に完成させ2009年には23世帯のコーポラティブマンションを建設した。そして60歳となった。今は60代をどう生きるかを考えている。

幸い、地域で人間関係が生まれ、さらに地域活動を通じて外部に人的な繋がりが増えた。それが財産であり、恐らくこれからの人生の中で外部との関係性を形成する糸口であると考えている。今後の取り組みは、50代でチャレンジした住まい作りやコミュニティ作りの集大成に向かうことになる。また、環境共生や長寿命住宅作りの標準化や、団地やマンションのバージョンアップに向けた取り組みが主たる行動目標になろう。建築的にはオープンビルディングの思想を実践し、コミュニィ作りとしては経済的にもバランスの取れた真のコミュニティ形成を目指すものである。そこで、僕の立場はコミュニティ・アーキテクトという称呼で表現することとした。

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