安気な住まい:コミュニティが大切だからといって

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私にとってはコーポラティブ第三弾の「安気な住まい」のプロジェクトを開始している。3月の説明会で5度目になるが、毎回、数人の参加者があり、住まいが気がかりだという実感は伝わってくる。しかし、住まいを選ぶ前に、コミュニティを育てるという試みがなかなか理解できないようにも感じる。というのも、参加者の方々が「土地は何処か」「建物は出来ているのか」などと、今にも家を買うがごとくに反応していて、「土地も建物も仲間づくりが済んでから」と答えると減なりされる。とりわけ高齢の方の反応がコミュニティに消極的で、それよりも「今すぐ入りたい」と気持ちが萎える。参加者の気持ちは善く解っているつもりだが、老後の生活というか今の生活を支えるのがやっとだという気持ちが、これから数年も掛かりそうなコミュニティづくりに気持ちが引いてしまう事になる。

だから本当はすでに準備している所に入って欲しいと思う気持ちもある。あらかじめ想定したコミュニティと経済環境と住まいを用意して入居できれば良いとも思う。しかし、それがかなわない。現状の制度の中では、多摩ニュータウンでそれを探すには有料老人ホームだって難しい。3ヶ月はクーリングオフだとしても、隣人の個性は見えない。最初は猫の子を被っていた人も3ヶ月を越える頃から牙をむき出す。どこのホームでも3ヶ月がキャンセルできる期限。居住者もそれがクーリングオフといって法律で守られる3ヶ月なのは知っている。だからその間はホームの管理会社が特別に気を遣うことも知っていて、その間に問題発言などしようものなら後のしっぺ返しが怖い。それが無くても何となく気になる。だから大人しいのだが、それ以降は自我が全開になる。

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人間の適応の限界に現状の住宅供給システムが付いていっていないことが原因。買うか借りるか、入居金を支払うかしかない選択に人々は迷う。買ってしまえばその後は運命的なもの。覚悟を決めて住み続けるしかないので、そこでは決断が難しい。ただ、その前に全てを決めることに躊躇する。だから3ヶ月なのだが、結局は「帯に短し、襷に長し」では仕方がない。人間の優柔不断に付いていくためには、もっとヒューマンなシステムでなければ選択すら無理な話。最後にはパニックになって誰かの責任にするしかなくなるのが顛末。

これからの時代は住宅が余るはず。そこで曖昧な人間のニーズにも適応できる仕組みが出来ないかというのが「安気な住まい」の主旨。それが出来ればこの上ない。さて、どんな住まいが出来るかがこれからの楽しみ。そして苦しみかもしれないが・・・。

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このページは、秋元孝夫が2012年3月 5日 04:08に書いたブログ記事です。

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