安気な住まい:自殺して何が楽しい・・・

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今日も人身事故で電車が止まった。何が原因だか解らないが電車に飛び込む人が多い。私鉄の職員に聞いてみた。「自殺した親族には損害賠償責任を請求するのか」と。答えはノーである。請求はしないし、してもいい結果にならないそうだ。自殺をする本人にとっては都合の良い電車かも知れないが、利用者や関係者にはいい迷惑で、極めて無責任な社会参加だと言えなくもない。自殺をするならば密やかにやってもらいたいと思うのだが、何処かで現世を引き継いでいて、自らの最期の行為をこれ見よがしに披露する癖がある。車内での練炭自殺や親しい友人に死の予告をした後での薬物自殺。どれもひっそりとする自殺は少ない。富士山の山麓で首を吊るのは見付からないこともあって報道されないのかもしれないが、私としては本当の意味の自殺の姿だと思う。いつの間にか屍になって動物や昆虫の餌になり最期はバクテリアが食い尽くして自然の循環の中で葬られる。その覚悟が有るのならそうしてもらいたい。

結局、多くの弱虫が死出の旅を最期の社会参加よろしく目立った死に方を選ぶのは止めてもらいたい。いや、それ程社会参加する機会を見つけたいなら何でも良いからやってみることだ。私の近所に住んでいるAさんは毎日のように近所の公園に行って草刈りをしている。別に公園管理を頼まれたわけではなく、ダイエットをするために草刈りで汗を流すという。ジョギングだとかエステに行ったりするのではなく、何か現実に成果を残してダイエットできれば一番良いと考えている。誰かの役に立つことが生き甲斐だとも言う。「金を使って痩せても何の得にもならない」というのがAさんの信念。それが真っ当な社会参加だと私は思う。命を失わせることを自らに架すことはエネルギーの要ることだが、少し誰かの役に立つことをしてから、本当に死を選ぶならば選べばいい。確かに人間の特権は自ら死を選べることで、他の動物には許されていない。決して種を滅亡させる抑圧を受けているわけではないので、進んで死を選ばないのが普通。特別なことを欲しているので有れば禁止することは出来ないが、やはり誰かの役に立つこと。無償の「大きなお世話」をやって欲しい。他人に対して直接する親切ではなく、勝手にする親切ならば誰も文句は言わないはず。例え公園管理者から「勝手に草刈りをしないでくれ」と言われれば、その他にある通路などの草刈りをすればいい。それも勝手にすればいい。

自殺について考えるとき、有島武郎「惜みなく愛は奪ふ」を思い出す。自己愛の終点が自殺だと感じさせる内容で、結局は自分一人で死ねなくて愛人と心中した。芥川龍之介も川端康成も三島由紀夫も太宰治も結局自らを死に追いやったが、それなりに社会的な責任を負って、というより社会的に大きな影響を与えて死を選んだが、電車に飛び込む死者はもう少し社会に寄与してから死を選んで欲しい。余りにも無責任すぎるというのが私の意見だ。もっと現実に動けば楽しいことがある。自殺して何が楽しい・・・。もしかして住宅ローンの返済苦で、団体信用保険に加入している人で、家族の犠牲になっている場合は目立って死ぬのが常套手段。まさか・・・。

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このページは、秋元孝夫が2011年12月16日 05:27に書いたブログ記事です。

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