40歳が近づいてくると女の一生はこれで良いのかと自問自答する。・・・かもしれない。私は女ではないので実感は沸かないが、『一度は女として子供を宿したい』と思うのは女の性。男には出来ない技でもあるのだから、単身覚悟して身籠もるのは女の意地でもあるのだろう。恐らくこうした人が子供を授かり独りでの子育てを始める。母一人子一人の生活が始まり、覚悟しているから男親は必要ないという意気込みが強くあるのだが、何処か寂しい。そんな親子が求める新しい家族像がある。それがコレクティブな住まいである。
男女の愛の結晶である子供が、当事者同士の結婚という制度上の仕組みを超えて生まれた場合には、子を育てる役割は多くの場合母親に依存する。資金的な負担を親権者に依存する場合もあるが、自立心の高い女性の多くは、子育てを自らの責任として受け止め、自らの環境の中で育児を完結させようとする。しかし、何処かに無理が行き、子供の成長期に様々なトラブルを発生させる。そこに登場するのが疑似家族としてのコレクティブ家族である。
中国は福建省の客家族(はっかぞく)の住む住居に、円楼(えんろう)や角楼(かくろう)という囲まれた複数家族の密集集住形態がある。一つの円楼に30世帯から100世帯という規模の世帯が同居していて、互いに関係しつつ分離している密なコミュニティを形成している。木造の板壁で仕切られた住戸間では声も聞こえるしイビキも透過する。だから夫婦げんかや子供への折檻など止めどなく日頃の生活が容赦なく飛び交うことになる。そこに家族は相互の関係を保ちつつ育つことになる。母一人子独りであってもそこでは寂しさは無い。むしろ孤立する事の難しさすら感じるだろう。そして一人親の子供も、父親が居なくても父親に替わる人格が現れて尊敬も従順な行いも覚えていく。
イタリアの映画に『ニュー・シネマ・パラダイス』という映画館の映写技師と男の子の触れ合いのドラマがある。「トト」と呼ばれた少年サルヴァトーレの父は戦争に取られ、少年はシチリア島の村で母と妹と暮らしていた。そこに父親代わりの映写技師、アルフレードが登場する。トトに執って、アルフレードは父であったし尊敬する映写技師であった。その技師を慕いそして著名な映画監督に成長する。決して親族ではないがアルフレードの死を知らされて彼は故郷を回顧する。
『家族とは必ずしも親族に非ず。』とはこれからの社会の姿である。そこには祖母も祖父もいて、父親や母親、兄も姉も子も孫もいる。好きな子も居れば嫌いな親もいる。どこかで反駁しているが気になっている他人がそこにいて、互いに影響を与え合っている。自立できるようになり集団が気に入らなければ出ればいい。でも何処かで故郷を感じ、家族を感じることが心の家族を実感できるシーンであり、もしかしたら本当の、いや真実の家族の存在なのかも知れないと思う。貴方はどう思う?
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