安気な住まい:「絆」という 言葉の意味

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20110311は消えない記憶として残った。被災地からの声を聞く度に「絆」の大切さが見えてきた。恒例の清水寺住職の今年の一文字にも「絆」が選ばれた。ネットの語源由来辞典で調べると「絆とは、断つことの出来ない人と人との結びつき」とある。

人は独りでは生きていけないという・・・。絶海の孤島に流れ着いたロビンソンクルーソーもサンディという相棒を得なければ死んでしまったに違いない。15少年漂流記の子供達も15人の社会があることで相互に影響し合って住み続けられる環境を作り上げていった。スイスのロビンソンはもとより家族での孤島生活だったのだから、どのような孤立生活も一人ではない。これらは全て物語りなので、一人だけでは話として面白くないだろうと言うこともあるが、誰かと生きるということは心の絆を満たしてくれるものがある。たとえいがみ合った末、離婚したとしても二人の間には関係があったはず。心の結びつきが終了しただけで、新たな人との結びつきが生まれ、そして新たな絆が育っていく。

正月が来ると初詣に人が集まる。だいたい家族だったり友人だったり誘い合って初詣に出かける。あるいは店の繁盛を願って新年の忙しさの合間を縫って一人で出かけける人もいるが、みんなが共に幸せになるように願うのが普通のこと。実際に神様の存在を信じている人は殆ど居ないし、願い事をしても効果は無いことを百も承知しているのに初詣に出かける心がある。たぶんその心は石川啄木の短歌「ふるさとの訛りなつかし停車場の人ごみの中にそを聴きにゆく」と同じように人混みに人々の勢いや佇まいを感じに行っているのではないかと思う。

達磨大師が洞窟に向かって座して念仏を唱える修行を行ったのは、世俗に背を向けて孤立を受け止めるために修行したのだが、人は一人ではないことを背中に感じつつ自らを見つめた行為だったに違いない。インドだったかオオカミに育てられていた少年が見付かったという。発見されたときは10才くらいだというが、人間社会に適応できないくらいオオカミとして生きてきた。牙も生えていて人間もオオカミに育てられると身体的な特徴も変化するということが解ったことを印象として覚えている。

オオカミ少年は極端ではあるが、子供の成長を見守ることは社会の責任だと思う。母親が自分の子供に売春をさせるような日本である。孤立する社会が生み出す弊害にそろそろ気づいて、コミュニティというしっかりとした人間関係が保てる住まいや街を作って行こうではないか。オオカミを悪くは思わないが人間の社会的な規範を覚えられる環境を造ることは社会の役割だし、その中で子供を育てることが地域の責任でもあると思うのだ。

人と人との「絆」が正常に生まれ育つためには孤立しない環境が前提になる。たまには世話役も必要だし、お節介だって心の平和を保つのに役に立つ。人は人が育てるのだから、多くの人の刺激が子供の精神を豊かにする。その中で取捨選択することの出来る環境が望ましい。親の考え方が間違っていたら気づけることも大切なこと。全てが親の言いなりの子育てはオオカミ少年を人間が作ることにもなりかねない。それを防ぐ為には集団での居住が望ましいのだ。改めて集合住宅の意味を感じている。謹賀新年。今年は良い歳になるように・・・。

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このページは、秋元孝夫が2012年1月 1日 00:09に書いたブログ記事です。

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